城址とガラ紡の里山暮らし
愛知県豊田市松平。徳川家のルーツにあたる里山です。その里山に2014年から暮らしはじめた家族のどたばた。松平で祖父が営んできたガラ紡のあれこれ、松平のなかでも大給城址の季節の移ろいを紹介していきます。
移住計画・なぜ松平編⑪ スタートライン
 母にも電話しました。同居の意思表示は、母の誕生日(2月15日)と決めていました。誕生日プレゼントです。   


私「松平に住もうと思うのだけど、一緒に住む?」   
母「いいんじゃないの」 
 

 少し躊躇するかと思いきや、即決でした。  

母「私からも願いがあるのだけども。叔父も同居ね。叔父に何かあったとき私は心配なんだわ」。
 
 叔父はずっと独り身です。姉としての心配りなのでしょう。私も、叔父と一緒になって大家族になるのも悪くないと思いました。

 叔父にも電話しました。


私「松平に住みたいんだけど」
叔父「ほんとに、あんな田舎に。えぇんかね? 大変だよ」 
私「叔父ちゃんもいっしょだよ」
叔父「わしかね? わしはしみったれだから、将来迷惑をかけるからいいわ」

 最初は口で渋っていましたが、喜んでいる感触がありました。将来、私が山や土地の相続を考えてもいいことを条件に、同居を理解してもらいました。

 これで、私たち家族3人、母と夫の家族2人、叔父の6人家族の移住計画にむけスタートラインに立ちました。これからどたばたは続くのですが、またいずれ。
[2012/09/30 06:44] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編⑩ 赤味噌と焚き火
 なぜ「2月12日」か。
 松平観光協会のHPで、『天下祭』の開催を知ったからです。場所は松平郷。裸まつりや出店・露店があるとのこと。『天下』の意味は、徳川家のルーツが松平にあることからきています。「この祭をみてから妻に話してみよう」と決めました。

 当日は寒かったものの、いい天気でした。妻と娘と一緒に、松平郷へと坂道をあがっていきました。
 途中、JA松平のみなさんが『戦陣鍋』をふるまっていました。赤味噌仕立ての豚汁です。そばには暖をとる焚き火がありました。私たちもいただきました。
 
 赤味噌の味焚き火の香り。子どもの頃の餅つきやどんどん焼きなどの記憶がフラッシュバックされてきました。味と香りの描写を言葉では言い表せませんが、鼻の奥がツーンと痛み、目の縁から涙が染み出てきました。
 
 「そうだ、そうだ、これだよ」
 「娘に季節の行事を大事にして伝えたい」と強烈な思いがこみ上げてきました。

私「松平に住まない? こっちで家を建てて」
妻「えっ? どういうこと?」
私「こっちなら畑もできるし。同居も考えて。」
妻「いつのことをいっているの? まだずっと先のことでしょ」
私「娘が小学校にあがると同時に。だから2年後かな」
妻「そんな早く?・・・でも、いいタイミングかも。いいねぇ。いいねぇ。いいねぇ

 妻は「いいねぇ」を3回繰返しました。私のひらめきに賛同してくれました。
 
 祭では、松平和太鼓のみなさんが演奏をしていました。
120929わ太鼓

和太鼓をきくと心がワクワクして体を震わすものですが、この日は格別なものとなりました。(続く)
[2012/09/29 07:00] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編⑨ ひらめき
 これまで、妻・母・叔父・私それぞれの思いを綴ってみました。

・妻の夢…畑をして野菜・果物を育てたい。
・母のこれから…退職後は花を育て、松平へ墓参り。そして孫と遊びたい。いつか同居も。
・叔父の憂い…松平にある代々の土地・山を誰が引き継いでくれるのか。
・私の価値転換…自然のなかで生き抜く力を娘に

私は昨年40歳、不惑を迎えました。以前から「40歳でこれからの生き方をきめる節目にする」と決め、正月から10年日記も始めました。

ある日10年日記のカレンダーを眺めて、ふっとひらめきが生まれました。

12092810年日記 10年日記のカレンダー

「みんなの思いを実現するなら、松平に家を建てて住めないだろうか。タイミングは、2年後。娘が小学校に入学すると同時に」。

この思いをまずは妻に。打ち明ける時期を「2月12日」と決めました。
[2012/09/28 06:25] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編⑧ 自然に向き合う作法
 たまたま仕事を通じて出会ったOさんとSさん.この出会いで、私のなかに何かうごめくものをもたらしました。
 地震・津波という大自然のエネルギーの前に人間の力の小ささ、いのちをめぐる人間のいとおしさとつながる力強さ…。
 もし、私が同じ場面に出くわしたとき生き抜く力はあるのだろうか、そして娘にもどう伝えていくのか。悶々と考えるようになりました。

 昨年7月のある日、たまたまカーラジオを聴いていました。今はよく知られるようになった『釜石の奇跡』。なぜ釜石の子どもたちは、大津波から逃れ、いのちを守り、冷静に対応できたのか。釜石で防災教育を続けてきた片田敏孝さんにインタビューをしていました。
 片田さんは、
 ①想定にとらわれるな。
 ②最善を尽くせ。
 ③率先避難者たれ、
 
避難三原則を教えたから、といいます。
 その基本にある自然と向き合う姿勢を次のように語っていました。
 「自然に近づき海の恵みをうけるためには、必然的に災い(津波)に付き合わざるをえない。それが、自然のなかで生きるものの作法だ」。
避難三原則と基本姿勢は、日頃の生き方につながります。

 このラジオ番組で、私が娘に身につかせたいことがはっきりしてきました。
  
 ①何よりもいのちの重みを真ん中に日々営むこと。
 ②自然のなかで生かされているものとして、向き合う姿勢。
 ③どんな場面に遭遇してもなかまと生き抜くこと。

 とはいえ、これらは「知識」で身につくものではありません。(続く)
[2012/09/27 06:07] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(1) |
移住計画・なぜ松平編⑦ 薪ストーブが救う
 Oさんは、Sさんの夫から街の惨状をはじめてききました。

 街なかでは津波で多くの人が流されたこと。
 救助にいっても助けられなかったこと。
 そして子どもが生まれたばかりで何もできないこと

…Oさんは驚き、いてもたってもいられませんでした。
 
「とにかく、私の家にきなさい」。

 Oさんは、Sさん夫妻と青白くなった赤ちゃんを連れて自宅へ。幸い、Oさんの家には薪ストーブがありました。すぐにお湯を沸かして、赤ちゃんをお風呂にいれました。電気・ガスなどのライフラインがとまっているなか、薪ストーブがどれほどあたたかいものだったでしょう。

薪ストーブ Oさん宅の薪ストーブ

 Oさんは当時の様子を次のように話しています。

 「赤ちゃんには、まだへその緒がついていました。体も紫色でした。お湯で体を洗うと、気持よさそうな顔をしたんです。生まれてすぐに地震でしたから、ずっとお風呂に入りたかったのでしょうね」。

 ろうそくや懐中電灯を照らしながら、赤ちゃんは初めて産湯につかりました。Oさん一家が、いのちを救った瞬間でした。(続く)
[2012/09/26 05:29] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編⑥ SさんとOさん
津波の水のひいたあと、クリニックの院長とSさんの夫は周りの救出活動を夜中まで続けました。しかし、翌日、院長から「このままクリニックにとどまっていても、どうすることもできない」と告げられました。

 Sさん夫妻は帰宅を決意。自宅は被災をまぬがれたものの、ライフラインはとまっています。食べ物もありません。Sさんは紫色のわが子を抱き、寒さから守っていました。
 「とにかく、食べ物を買ってくる」。夫は動揺しながら、宮古市内のいわて生協の店舗へ。店舗は震災の影響で15:00開店。とにかく並ぶことにしました。

 さて、震災当日の状況は、愛知に住む私たちにも逐一報道されていました。しかし、被災地域はライフラインも情報も遮断されており、孤立状態だったのです。Oさんの家は宮古市内とはいえ、海岸から離れた場所にあります。海岸での悲惨な状況は、Oさんに伝わっていませんでした。
 
 Oさんも買い物しようといわて生協の店舗へ。そこで、開店を待つSさんと出会います。
[2012/09/25 05:07] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編⑤ 岩手・宮古で
 2011年3月11日午後2時46分に発生した東日本大震災
 
 地震と津波がもたらしたものは、とても一言でいいつくされるものではありません。私は震災から1ヵ月後に岩手県宮古市へ。仕事で訪問した2家族の出会いが、私の人生観を揺さぶるものとなりました。

津波② 
(写真は岩手県大槌町。震災1ヵ月後です)

 宮古市沿岸近くのレディースクリニック2F。Sさんが女の子を出産したのは、3月11日午後2時19分でした。夫と体重2610グラムを確認直後、大きな揺れが襲いました。
 
 電気が消え、水も出ません。しばらくすると、轟音もきこえます。

 「津波だ」

 Sさんはじめ、全員がクリニック3Fと屋上へ。津波が病院の2Fまで襲いました。(続く)
[2012/09/24 13:44] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編④ 叔父の憂い
「わしに何かあったらどうするんだ…」。いつも叔父は心配していました。

叔父は、祖父が亡くなってから松平にある山や土地を引き継ぎました。江戸の頃から続く代々の土地です。登記簿は5冊にものぼります。とりわけ、山林は地域の共同管理です。「地域のみなさんに申し訳ない」と、独身で子どももいない叔父は、そのプレッシャーにさいなまれていました。

 祖母が亡くなってから、叔父一人での里山生活は厳しいものでした。2006年に叔父は松平の家を壊してみよし市へ。それでも、土地や山林の相続から逃れられるものではありません。しかし、都会暮らしの私たちにすぐに結論が出せるものではありません。「何かあったときには、残ったもので何とかする」だけのことです。

 ただ、全国の農地で引き継ぐものがおらず、荒れた場所をよくみます。

「このまま叔父の山も土地も荒れるのか」と私も胸が痛んでいました。(続く)
[2012/09/23 06:02] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編③ 母のこれから
 母は来年2月で65歳。今の職場を60歳まで正社員として働き、65歳まで再雇用契約を結んでいます。
還暦のときに、「まだ働く」ときいたときはうれしかったものです。
と同時に、息子にとっては、いずれ直面する介護などの問題が5年延びただけのこと。今年の正月、母にいよいよどうするのかきいてみました。

 「そうねぇ…。孫をみたり、松平の墓をみたり、花を植えたりしようかな。できれば、同居も…」

 ん? 同居? 
 
 初めて母からきいた言葉です。母はまだピンピンですが、いつか介護のときがくると覚悟はしています。
 しかし、母の住むのはみよし市の新興住宅地。我が家からは車で約1時間の距離で、墓のある松平へも同じほど離れています。「スープの冷めない距離」とはいいますが、私はこれぐらいの距離が適度だと思っていました。

 もともと、私が生まれ育った場所は訳あって戻りはしません。母は再婚して14年前からみよしに住みましたが、私にとって縁のない場所。それに、2家族が住める大きさではありません。新興住宅地なので、地域とのつながりも太くありません。
 そんな場所で、母が65歳以降をどう生きるのか。「テレビ漬けだけの生活はやめて」と願っていましたが、まさか同居を思っているなんて…。驚いた言葉でした。(続く)
[2012/09/22 06:38] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
移住計画・なぜ松平編② 妻の夢
 我が家は名古屋市守山区にあります。住宅・マンションが立ち並んでいます。妻と2003年3月に結婚。すぐにマンションの7階を購入しました。矢田川が目の前を流れ、交通の便も生活環境も申し分ありません。

 もともと私は田んぼと竹やぶの広がる田舎育ちですが、大学生で一人暮らしを始めてからずっと都会暮らし。妻も、就職と同時に名古屋暮らしです。縁あって結婚しました。

120921ブログ マンションから 我が家から。桜満開の季節。

 私は、「都会の便利さを受けて一生この地で暮らすだろう」と、ぼんやり考えていました。
 
 妻は違っていました。「いつか名古屋から1時間ぐらいの田舎に移り住み、畑をやりたい」と常々語っていました。でも、虫嫌いで長続きしない性格の妻です。「畑はできっこない」と私はあまり真剣に受け止めませんでした。

 そんな我が家に、娘が2007年4月に誕生。しばらくは子育てに日々追われました。
[2012/09/21 05:26] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(2) |
移住計画・なぜ松平編① 娘の涙目
 私たちの新築計画は、いよいよ建築士と設計契約を結ぶ段階にきました。今年2月、妻に思いを打ち明けてから8ヶ月。あっという間でした。

 この時点になって、5歳(年中)の娘から思わぬ言葉が…。
 「どうしても松平に住まないといけないの?」涙目です。
 次の日には
 「苗代小学校(今住むマンションに近い小学校)にいけないの?」寂しそうです。
 
 私は、幼くとも娘の意見を大事にしてきました。松平に娘を連れていき「ここに住みたいと思うけども」ときいて、賛成してくれました。
 ただ、いよいよというときに、娘なりに不安がよぎっているのでしょう。娘のためにも、なぜ父さんが松平に住もうと決めたのか、その初心をしばらく綴っていきます。(続く)
[2012/09/20 19:50] | 移住計画 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ワタづくり2012⑤ ワタはじく
 いよいよワタがはじけました。
 
 アジア綿は、一つの実にかわいらしく3つワタがついています。うれしいですねぇ。綿は簡単に摘むことができました。このひとつの固まりに、ワタ毛に包まれたタネが6個ほど入っています。
 
120919棉開く (9月8日撮影)

アメリカ棉はまだつぼみです。いかにも「はじけるぞぉ~」と生き込んでいるようにみえます。

120919棉つぼみ(9月8日撮影)

これから楽しみです。(続く)
[2012/09/19 05:17] | ワタづくり2012 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑬
 同じガラ紡を扱った番組でも、祖父の登場した1997年当時とはしめくくりのナレーションは違っていました。(ガラ紡との再会・発見館編⑥ 8月21日更新)
 
 「ガラ紡はすでに最終段階に入った。いつまで松平でガラガラという音をきかせてくれるのか」というしめくくりでした。寂しさを感じましたし、実際に3年後に祖父は工場を閉じました。
 
 それが、今回の番組は「これからもガラ紡は続く」という展望を感じる内容です
 
 ガラ紡のもつ「ぬくもり」「あたたかさ」をなぜ時代は求めるようになったのか。

 祖父の番組が放映された1997年を振り返ります。ちょうど消費税が3%から5%になり、景気が低迷しました。その影響をうけ、今でもデフレ状態は続いています。労働者の賃金は1997年が最高。以降、賃金はずっと下がり続けており、現在も最低水準進行中です。就職難が続き今では正規職員で働くのが難しくなりました。派遣労働や非正規労働者が当たり前のようになりました。
 現代は貧困・格差社会と呼ばれます。人間としての尊厳が大切にされているのか疑問に感じる時代です。それでも、数年前は「年越し派遣村」ができましたし、今でも毎週のように「原発の再稼動ダメ」と多くの人たちが立ち上がっています。「世の中をよくするには、団結しないといけない」という動きが生まれています。

 そして東日本大震災です。被災者への支援は、人と人との繋がり・絆のなかから生まれてくるものという動きになっています。震災から1年半がたちましたが、継続した取り組みがとても大事になっています。

 ここまで書いて、出てきた漢字を並べてみます。「団結」「繋がり」「絆」「継続」「取り組み」…どれにも「糸」という文字が入っています。つまり、時代は「糸へん」の漢字の持つ価値観を大事にし始めているのではないか。ガラ紡は綿から直接「糸」が紡がれるのを実感できるから機械だからこそ、「糸」に人間の営みの本質を「ぬくもり」として感じるのではないか。この15年間、変ったのはガラ紡ではなく時代ではないのか…。

 と、なんだか難しく、偉そうな文章を綴ってみました。ただ、番組をみて、河合さんを訪ねて、私がガラ紡にひかれる理由がこれでハッキリしました。(河合和紡績編終わり)
[2012/09/18 05:47] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑫
 番組では、ガラ紡の今を紹介しています。西洋式紡績の均一で細い糸から、ガラ紡の糸に人びとが再認識し始めたといいます。

120917ガラ紡糸 ガラ紡で紡いだ糸

登場したのは「45R」というアパレルメーカー。10年前からガラ紡で紡いだウールで製品をつくっており、今は河合さんの糸が45Rを支えるほど。

120915DVDジャケット

12091745R服 45Rの店舗は名古屋松坂屋にあります。


 河合さんは「見通しは悪くない。評判もいいし。いままでの経験をいかして、待っている人がいる限り一生懸命やらないといけない」

 そして、しめくくりのナレーションは次のような言葉でした。

 幾度もの繁栄と衰退を繰返し、いま再び、その魅力を輝かせるガラ紡。華やかさこそないが、現代の人びとが求めるぬくもりや懐かしさがそこにはある。ガラ紡を紡いできたものは糸、そして歴史。ガラガラ、ガラガラと決して回転をとめることなく、140年の時を紡いできた。そして、これからも。
120917しめくくり

 このしめくくりのナレーションにとても驚きました。そして、「あっそうか!」というある発見をしました。(続く)
[2012/09/17 07:00] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑪
番組では、河合さんも登場。
120915DVD河合さん

ガラ紡の繁栄期と衰退期をとてもわかりやすく紹介していました。

【明治から大正の繁栄期】
・明治10年にガラ紡が第1回内国勧業博覧会で最高位をとって爆発的に広がる。特に、三河は綿の一大産地で原料調達も容易。
120916DVD綿

・当初は手回しで動かしていたガラ紡も、豊田で動力を水車にするように改良。松平には滝川や群界川の豊かな水量・急流があったために普及する
120915DVD水車

・水車から電気への動力。豊田で初めて電灯がともったのも松平。それもガラ紡のために。
120916DVDガラ紡数大正 ガラ紡の工場数が増えていきます

【太平洋戦争の統制期】
・戦局が厳しくなり昭和18年に企業整理が行われる。統制をうけてガラ紡工場の半分は転廃業。

【戦後の繁栄期】
・ガラ紡を調べると、必ず出てくる言葉『ガチャ万景気』も紹介されています。戦後の衣料不足から糸が求められ、「機械がガチャっといえば一万円という好景気」という昭和22~35年のことを指します。河合さんは昭和28年に16歳からこの時期にガラ紡を始めました。
120915DVDガチャ万景気


【衰退期へ(昭和40年以降)】
・大企業の繊維業が復興。ガラ紡は、昭和40年代は空前の灯火に。河合さんのもとに注文が来ず、日々の生活に困る苦い経験もしてきました。組合で操業短縮が進められましたが、きっと祖父も同じだったのでしょう。
120916DVDガラ紡工場 急激に工場数が減ります。
 
祖父も2000年には工場を閉じ、今では豊田でガラ紡工場は河合さん1軒に。

それが、今、どうしてガラ紡なのか?(続く)
[2012/09/16 07:19] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑩
 ひまわりネットワークさんの番組は、7月23日に放映されました。私の住む名古屋では放映されません。そこで、母の住むみよし市まで出向きました。
タイトルは『刻の遺産・ガラ紡~繁栄と衰退、そして未来』です。

120915DVDタイトル


 冒頭は「何のファッション番組が始まったのだろう」という映像と「繁栄と衰退を繰返して、ガラ紡が紡いできたものとは…」という問いかけから始まりました。
120915DVDジャケット


 番組では、ガラ紡の仕組みやこれまでの歴史が紹介されました。堀金村資料館や発見館にあるガラ紡、そして水車が紹介されていますが、これらは祖父のガラ紡機です。

120915DVDガラ紡機②

120915DVDガラ紡機③



 松平地区も紹介されています。
120915DVD松平
 (続く)
[2012/09/15 06:58] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑨
 電話のお相手は、地元のケーブルテレビ局・ひまわりネットワークさんです。ガラ紡の特集企画を組み、来週その取材があるというのです。ガラ紡が注目されているのを目の当たりしました。

ただ、河合さんのガラ紡が次に引き継がれる見通しがないのも事実です。思い切って、私の「夢」を話してみました。それは、祖父の工場跡地に棉を育てること。そのワタでガラ紡を紡ぎ、糸をつくること。そんな体験ができる場所をつくりたいこと…。
河合さんも「滝川に水車を置いて、ガラ紡が動かせるのも面白いね」と私の夢物語を面白がってきいてくれました。そんなガラ紡の里づくり(私は勝手に「がらんぼうの里」と名づけていますが)の夢を語り合っているうちに、私自身がワクワクしてきました。

 河合さんは「でもね、慌てなくていいよ。まずは綿を植木鉢から育てるところから始めてみたらいいよ」。ガラ紡の浮き沈みを経験しているからこそのアドバイスです。

 河合さんにお会いして、心踊る気持ちになりました。「また、いつでもおいで」という言葉は、とても心強く感じました。(続く)。
[2012/09/14 21:20] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑧
 ガラ紡を発明したのは、臥雲辰致(がうんたっち)さんです。1873年(明治6年)です。私は、高校時代に日本史の教科書で学びました(ガウンタッチ、とカタカナで書くとなんだか粋な外国製品みたいですね)。ガラ紡について調べると、発明者として必ず紹介されます。
 河合さんの工場にも臥雲辰致さんを紹介したパネルが掲げられています。

 120913臥雲辰致
 臥雲辰致さん。「辰致」の読み方は「ときむね」「たっち」「たつむね」などの呼び方があるようです。

 臥雲辰致さんは、長野県安曇野の生まれです。祖父のもとに生前、誕生の地である堀金村(今の安曇野市)から「資料館にガラ紡機を展示させてもらえないだろうか」という依頼があったとのこと。
 河合さんと祖父ら3人で、ガラ紡を積み堀金村へ。今のように高速道路網が整備されていないでしょうから、きっと道中は長かったでしょうね。堀金村では、知事や村長たちが大歓迎して出迎えました。

 当時の歓迎ぶりを河合さんは楽しく懐かしく話してくれました。祖父にとっても、ガラ紡の発明の地で感無量だったことでしょう。そのときに3人は「ガラ紡を続けていこう」と励ましあったそうです。
 「今でも、堀金村にしんいっつぁんのガラ紡が置いてあるよ」と河合さんは教えてくれました。

 そんな話をしているとき、河合さんのもとに電話がかかってきました。(続く)
[2012/09/13 06:25] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑦
 ガラ紡で紡がれた糸は、1本だけで糸とはなりません。2~3本の糸をあわせて必要な太さにします。この過程は「合糸機(ごうしき)」という機械で行います。
120912合糸 合糸機

 さらに合糸した糸に「よりをかける」という作業があります。よじって糸を製品として仕上げる作業です。これを「撚糸」(ねんし)といいます。撚糸機

120912撚糸機 撚糸機


慣用句に「腕によりをかける」があります。「自信のある腕前をいっそうよく示そうとする」という意味ですが、糸をよるという、この作業から来る語源だそうです。

 一本一本の糸をよくみると、玉ができたり、太さにムラがあったりします。これもまた、ガラ紡の風合いです。過程をみていくと、この風合いが出る理由もよくわかります。
120912糸拡大 ガラ紡での糸でできた布巾を拡大

 一連のガラ紡の過程を体験させてもらった後、河合さんは私の祖父との思い出談義になりました。(続く)
[2012/09/12 06:51] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑥
 河合さんから手ほどきをうけました。
 まずは、よりこをガラ紡のつぼにいれます。そのときに使う道具が「込め竹」です。竹でつくられています。なんとなく茶道で使う茶せんに似ています。

120911込め竹 込め竹とつぼです。
 
 込め竹によりこをはさみます。片手で先をギュッとつかみ、つぼにいれます。ギュッとつかまないと、込め竹の先が折れそうです。込め竹を抜くと、よりこがつぼに残ります。 
 
 そして、ガラ紡のスイッチオン。つぼが回転します。ガラ紡機の上には、木でできた糸巻きが並んでいます。一つひとつの糸巻きに若干糸をまきます。糸の先をつぼ内のよりこにさします。すると、糸とよりこがつながります。こんなに簡単にくっつくものなのか、と驚きます。

120911ガラ紡 右のガラ紡には糸巻きに糸があります。左は糸がない状態です。

 ワタの、綿毛がからみあって糸になるという性質を利用した紡績であるかが、よくわかります。(続く)
[2012/09/11 06:06] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編⑤
ガラ紡で糸を紡ぐまでには、準備する行程があります。もっとも大事な「よりこ」をつくらなくてはいけません。
120910よりこ 「よりこ」とは綿を棒状にしたもの。ガラ紡の筒にいれやすくするためです。

「よりこ」をつくるに過程は…

①ふぐい…綿をほぐしてゴミなどをとり除きます。
②だめん…綿の繊維をそろえて引き伸ばしてシートにします。
③よりこ…シートになった綿を棒状にして「よりこ」をつくります。
120910打綿 打綿機

 よりこづくりのポイントは、歯車です。綿の状態や、綿以外(ウールなど)の材料で、使う歯車は異なります、このときは職人の勘が求められます。
120910よりこ よりこをつくる機械です。奥の壁に歯車が並んでいます。

 機械工としての技術もお持ちの河合さん。工場にある「ふぐい・だめん・よりこ」の機械を修理したり調整できたりするのは、もはや河合さんしかおりません。

 そして、いよいよガラ紡で糸を紡ぎます。(続く)
[2012/09/10 06:21] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(1) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編④
私の母や叔父はガラ紡をどこか避けていました。「苦労を伴う」「もうガラ紡なんて…」という言葉をきくからです。
河合さんはどうだったのだろう。失礼ながらきいてみました。
 
「そりゃそうだわね。不況のときは(昭和40年ごろ)、組合からも操業を短縮せよ、といわれてね。だから、若い人はガラ紡を時代遅れといって、自動車工場に働きに出るようになったんだわ」。
なるほど、そのときは母や叔父の青春期と重なりますし、ガラ紡をどこか避け続けてきた時代背景もわかります。それでも続けた、河合さんや祖父に頭が下がります。

さて、祖父の工場は小さいときから何度も足を踏み入れていましたが、機械で糸を紡いだ経験はありません。河合さんにお願いしてガラ紡で糸を紡がせてもらうことにしました。

[2012/09/09 07:09] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編③
 河合さんのもとに、全国から「育てた綿を紡いで糸にしてもらいたい」という依頼があるそうです。なかなか良質でない場合が多く苦戦しているようですが、それでも「オリジナルの糸を」という要望があるのですね。
 
 河合さんは、普段は名古屋港まで綿を買いつけにいきます。もっとも良質な綿はメキシコ産。一本一本のワタ毛が長く不純物も少ないそうです。「中国産やインド産はあまり良くないなぁ」とのこと。

 最近知ったのですが、日本で最初にワタが伝わったのは、8世紀の末(ちょうど京都に平安京ができたころですね)。東南アジアのインドシナ半島あたりから漂流した青年が、三河(今の西尾市あたり)に流れつき、タネを日本に伝えたそうです。
 「三河」と知り、これもまた縁を感じます。
[2012/09/08 06:24] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編②
 私は率直にきいてみました。
「明治村でガラ紡が見直されているとききましたが、本当なのでしょうか?」
 河合さんいわく「最近になって、ガラ紡・ガラ紡と騒ぎだすようになっている」。やはり事実のようです。(私も「騒ぎだした」一人ですが…)

 ちょうどそのとき、河合さんに電話がかかってきました。商談のようです。終わると「今も百貨店から電話がかかってきた」。ガラ紡といえば綿ですが、河合さんはウールでも糸を紡いでいます。
なるほど、工場内にはカラフルなウールの糸が見受けられます。

  「この前も夜中1時ごろまで糸をつくっていた」という河合さん。ご夫妻でガラ紡を営み、忙しい日々を過ごしていらっしゃいます。(続く)
[2012/09/07 06:17] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編①
 7月のある日、豊田で唯一ガラ紡を営んでいる河合和紡績工場へ。カーナビを頼りに向かいました。場所は豊田市岩倉町です。
 120906河合和紡績東海環状自動車道沿いですが、とても景色のよい里山に工場はありました。

 河合さんはあたたかく迎えてくださいました。私が小野田慎一の孫であることをたいそう喜んでくださいました。
 
 「松平でガラ紡をやっとったのは、うちと、しんいっつぁんと、あと1件の全部で3軒だったんだわ。ガラ紡の修理のときには、しんいっつぁんにはお世話になった。3人で励ましあってきたんだが、わしだけになってしまった」。

 しばらく、ガラ紡談義になりました。
[2012/09/06 06:07] | ガラ紡を訪ねて・河合和紡績編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
長崎・島原から⑥ レタス畑
  この地は多くが農業を営んでおり、妻の実家もそうです。
しかし、多くの家は跡継ぎがいません、あちこちに耕作ができない土地が見受けられます。2年前の帰省では、あまりにも荒れた田畑が見受けられたので心痛めました。このままでは耕作不能地がいっぱいになると日本の農業問題を深刻に感じたものです。

 ただ、今年は少し違いました。比較的若い農家が、かつてみかん畑だった荒地を借りて耕し返し、レタスを植えていました。ほっとしました。
レタス畑 レタス畑

島原の美しい景観は農業で成り立っています。この土地の価値のよさに気づいた方たちがきっと再生してくれるという可能性を感じました。

 今回、私自身が松平という里山に住もうと決意するにあたり、直面したのは「土地の血縁関係者しか住めない」という壁でした。幸い叔父がいましたので何とかなりそうですが、里山を何とかしたいという願いは情熱だけでは難しいと感じました。その対策は行政や地域のみなさんの意識的な働きかけが必要なのでしょう。
 松平でも過疎対策がひとつの課題とききました。この再生にむけたヒントが島原のレタス畑にあるようにみえました。
 
 丸一日かけて名古屋へ帰ってきました
[2012/09/05 05:25] | 長崎・島原から | トラックバック(0) | コメント(1) |
長崎・島原から⑤
島原には火砕流が襲った旧大野木場小学校の校舎を今も大事に保存しています。
120902大野木場小学校  旧大野木場小学校。背後に普賢岳。

 グランドには一本の銀杏の木があります。火砕流でやられてしまったと思われましたが、きちんと色付きました。陸前高田の一本松のように、生き残った自然は地元の皆さんを勇気づけるのですね。

120902いちょう 120902イチョウ全体
 
そして雲仙岳災害記念館へ。施設としては比較的新しく、火山の歴史や火砕流での教訓、いまの防災の仕組みを展示しています。
 120902震災岳災害記念館

 200年前にも爆発があり、対岸の肥後(熊本)は津波に教われました。今回「島原大変 肥後迷惑」という言葉を知りましたが、どおりで対岸からみる 島原半島の山々がいびつな形をしているか、わかりました。

 展示のなかには犠牲となった報道関係者のテレビカメラや直前まで撮影された映像があります。先日、シリアで犠牲となった山本美香さんはこの雲仙普賢岳をきっかけにジャーナリストを志したと聞きました。
120902被災カメラ 日本テレビのカメラ
 
 21年前、雲仙普賢岳の火砕流からの島原の復興が東日本大震災での被災地での希望になればと願わずにはいられません。(続く)
[2012/09/04 14:56] | 長崎・島原から | トラックバック(0) | コメント(0) |
長崎・島原から④ 雲仙普賢岳の火砕流
 妻がよく聞かれるもうひとつの質問は「雲仙普賢岳の爆発のとき、どうだった?」

 三陸海岸で津波の悲惨さを語り継いでいるのと同じように、島原でも火山と向き合っています。
 記憶に新しいのは1991年の雲仙普賢岳の火砕流です。マスコミ関係中心に43人が犠牲となりました。

120902被災した家  道の駅『水無本陣』には火砕流で被災した家がそのまま残って展示されています。

 妻の実家は火砕流の直接の影響はありませんでしたが、灰は降り続いたそうです。東日本大震災以降に島原の地を踏むと、これまでと違ってみえてきます。(続く)
[2012/09/03 19:10] | 長崎・島原から | トラックバック(0) | コメント(0) |
長崎・島原から③
 島原の乱の契機は重税と飢饉です。ここの領主が税を納められない農家に刑を与えます。
 なかでも、妊婦を残忍な方法で処刑します。当時からキリシタンの取り締まりはあったのですが、この妊婦の件を機に、隠れキリシタンが天草四郎をリーダーにして乱を起こします。

 徳川幕府は相当の兵を島原に送り込みます。背景にはキリシタンと結びついて、ポルトガルが日本を攻めると思ったのでしょう。徹底的に乱を制圧します。そのひとりが松平です。島原でキリスト教信者が見当たらないのも、この制圧のためです。

 そして島原は壊滅状態に。徳川幕府はその再生に全国から農家を移住させます。そのなかに小豆島のそうめん職人がおり、島原そうめんが名産となっていきます。

120902島原そうめん

 当時、この地で徳川(松平)が行ったことを思うと心ぐるしくなります。島原そうめんはとても大好きですが、多くの犠牲の上で今もあるのです。
 そして、島原城にのちに城主となるのも代々松平氏。不思議な縁です。

[2012/09/02 20:35] | 長崎・島原から | トラックバック(0) | コメント(0) |
長崎・島原から② 原城址から
 島原ときけば、歴史好きな方は天草四郎島原の乱を思い浮かべるのでは?

  妻がよくいってます。「島原出身と話すと、キリシタンなの?って聞かれる」。私もそのひとりでした。妻の実家はキリスト教ではありませんし、同級生にもいなかったそうです。しかし、島原を車で走っていると、あちこちにキリシタン墓地があります。
妻の実家近くには原城址があり、天草四郎の像や十字架があります。

120831天草四郎 
120831原城 原城址からみる有明海

 海の眺めは最高。娘は四つ葉のクローバー探しに夢中になるほど素敵な場所です。
この地で3万7千人ともいわれる人びとが命を落としましたが、松平とも結びつきがあるとは実は最近知りました。(続く)
[2012/09/01 15:45] | 長崎・島原から | トラックバック(0) | コメント(0) |
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