城址とガラ紡の里山暮らし
愛知県豊田市松平。徳川家のルーツにあたる里山です。その里山に2014年から暮らしはじめた家族のどたばた。松平で祖父が営んできたガラ紡のあれこれ、松平のなかでも大給城址の季節の移ろいを紹介していきます。
大給城址2012秋⑯ 水に最も気を使った山城か
『こんな城もあったんだ』(本岡勇一著)には、大給城の水の手曲輪を次のように紹介しています。

衝撃はそのあとでした。北に配された水の手曲輪が斜面いっぱいに広がっており、堤防のようなもので区切られています。また水門もあります。単に井戸代わりに水を溜めるものなのか、あるいは防御施設としてなのか悩まされました。ここまでのものをつくる必要があるのか! と聞いてみたくなるお城でした。

121130水の手曲輪 
水の手曲輪の全景

  私もこの記述を読むまで疑問に思わなかったのですが、なぜこんなところに水を溜めていたのでしょう。大給城のふもとの国道301号線には、山水が流れているところがあります。この著者は大給城に「水に最も気を使った山城か!?」という見出しをつけていますが、大給城と水との関係は何かあるかもしれません。
[2012/11/30 06:16] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑮ 水の手曲輪
大給城についていろいろインターネットで調べていると、多くの方が「みごたえのある城址だ」と書いています。そのひとつに、「曲輪」があります。「くるわ」と呼びます。曲輪とは、「平面の空間」ということのようですが、大給城の場合は「水の手曲輪」という看板があります。

121129水の手曲輪 

「水の手」というのは、ここに水を取ったり貯めたりする施設があったとのこと。そして、この「水の手曲輪」が大給城の特徴のひとつといわれています。
[2012/11/29 06:16] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑭ 土塁
 「土塁」という看板がありました。「どるい」と呼びます。土で高く盛られており、これも敵の侵入を防ぐためにつくられたものでしょう。堀でできた土を盛ったのでしょうか。

121128土塁 

 さて、堀切・虎口・櫓台・土塁を紹介してきましたが、入口だけでもいろいろあります。いつも城址にいくときには、くねくねと上っていくのですが、この「くねくね」も敵の侵入を防ぐために欠かせないのでしょう。中世山城版のセキュリティでしょうか。
[2012/11/28 06:12] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑬ 櫓台
 虎口のそばに「櫓台」という案内があります。「やぐらだい」と呼びます。「やぐら」とは、「城郭に防御用あるいは物見用に建てられた建築物」とのこと。ここに敵の侵入を確認したり防いだりする建物があったのでしょう。石が段々に組んで積んであります。

121127櫓台

ところで、大給城はとても石の多い場所です。人力で運ばれたものでしょうが、こんな山までどうやって石を運んだ? 誰が運んだ? いろんな疑問がわいてきます?
[2012/11/27 06:06] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑫ 虎口
  「虎口」という案内があります。「こぐち」と呼びます。(私は最初「とらぐち」と読んでました・・・恥ずかしい)。城の出入り口のことをいいます。大給城にはこの虎口は2つほどあります。

121126虎口 

  ところで、虎口というものを調べていくと、いろんな形があるようです。一文字虎口・枡虎口・喰い違い虎口・・・etc。大給城の場合は、喰い違い虎口という形態にあたるようです。喰い違いに入口をつくり、敵の侵入を少しでも弱めるためにあったのでしょう。

[2012/11/26 05:45] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑪ 堀切
大給城址内には、案内看板があちこちあります。まずは「堀切(ほりきり)」です。

121125堀切 
岩が当時のままゴロゴロしています。


  「そもそも堀切って?」と、辞書などで調べると「尾根を仕切るように作られた堀」「地を掘って切り通した堀」とあります。「仕切る」「切り通す」「掘る」ということは、人力で掘られたのでしょう。

 堀といえば、水が張られているのを想像しがちですが、中世の山城では空堀も多いとか。大給城縄張図によれば「尾根伝いに攻めてくる敵の侵入を防ぐため」に堀切をつくったそうです。
[2012/11/25 07:08] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑩ 国指定史跡
小さいときに親しんでいた大給城址ですが、今回国の指定する遺跡と知りました。というのも、石碑『国指定史跡・松平氏遺跡・大給城跡』があり、「昔はなかったのになぁ」と疑問に思ったのです。

121124国指定史跡

指定されたのは、2000年2月4日と豊田市のホームページにありました。そんな昔ではありません。(ちなみに石碑は「平成8年(1996年)3月」とあります。指定日との4年の違いは?)。大給城址は、松平氏遺跡(その他に「松平氏館跡・松平城跡・高月院」)として、国として大事されているのですね。
[2012/11/24 04:21] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑨ 縄張図
では、城址へ。

121123道 

 なだらかな山道を進むと『大給城址縄張図』という案内が出てきます。

121123縄張図 


  縄張図とは城の設計図のようなものでしょうか。読むと、大給城址は標高204メートルにあるとされます。この図では、どんな城だったのかイメージはつかないのですが、お城好きの方ならわかるのかなぁ・・・。

 案内には、堀切・虎口・曲輪という言葉がみられます。どういうものか私はよく知りません。なので、今回いろいろ勉強しながら紹介します。
[2012/11/23 09:19] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑧ 葵の御紋
 そうです。家紋は『葵の御紋』です。松平乗元の墓にもあります。テレビ番組の水戸黄門で「この紋所が目に入らぬか」と示しているものです。

121122葵の御紋
 
  祖父やこの地域のみなさんが墓の管理や掃除をしていたそうですが、今はどうなっているか・・・。この地域がいかに松平家・徳川家への思いが深いかよくわかります。

 水戸黄門の影響は私自身の心にも深くあるのでしょうか、「葵の御紋」には不思議なパワーを感じます。そんなパワーを感じつつも、私の生き方としては「葵の御紋」という虎の威を借る狐にならないように心がけたいです。(といっても、私は徳川家松平家の血筋とは関係ないですけどね)。
[2012/11/22 06:28] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑦ 歩きやすい山道
山道は歩きやすく整備されています。夏は虫や蚊に悩まされますが、秋の山歩きはいやされます。

121121山道 

耳を澄ますと、どんぐりの落ちる音があちこちからきこえます。

やがて、Tの分かれ道。案内では左に大給城址とありますが、右へ。

121121T道 

墓がみえてきます。
121121乗元の墓


『松平乗元の墓』とあります。松平乗元は初代の大給松平です。ところで、〇〇松平という、松平家分家は全部で14あるといわれています。松平家は、徳川家康のルーツですから、当然家紋は・・・。
[2012/11/21 05:59] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑥ 大給城山道入口
ふれあいの道を上ります。草刈はされていますが、荒れた天気の翌日は枝が落ちているので車で通るときは注意が必要です。

121120上り 

 しばらくすると、右手に大給城へいく方のための駐車場があります。私の小さいときには、ありませんでした。駐車場に車を止めて、歩いて坂を登ると、大給城への入口に到着。
121120登山口


ここからは山道になります。

[2012/11/20 05:42] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋⑤ 開通碑
 国道301号線からの入口に「大給城址とふれあいの道・開通碑」という石碑があります。私もつい見過ごしていました。

121119入口①

 今回、その後ろの文面を読んでみました。すると、ここからの道は地元民の「絶対の夢」であり、「部落民の団結の賜物」であると記されています。土地の無償提供者一覧に、祖父の名もあります。

121119開通碑② 
ふれあいの道は昭和49年4月着工、昭和52年4月8日完工



 叔父は「昔は、この辺はけもの道しかなく怖かった」と話していました。地元にとっては、地域を結び、生活をするために、とても必要とされていたのですね。よく祖父が掃除に出かけていたそうですが、それだけ思いの込もった道なのです。
[2012/11/19 06:00] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋④ カーブでみにくい
 それでは大給城へご案内します。車がおすすめです。名古屋方面からは東海環状自動車道の豊田松平インターからが便利です。料金所すぐの分岐点は左へ。インターから大給城入口までは信号が3つしかありません。
 
  • インターすぐ『松平志賀町丸山』は直進
  • 『松平橋東』(T交差点)を右折(巴川を右にすすみます)
  • 『九久平簗場』(くぎゅうだいらやなば)を左折(滝川を左にすすみます)

 国道301号線を数分上り「大給城址公園」「松平乗元の墓」という案内が右手にみえます。

 121118入口①
 ただカーブでみえにくいので、急ブレーキで後続車に衝突されないよう注意してください
[2012/11/18 07:29] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋③ 大給城って?
  大給城址の様子を紹介する前に、まずは大給城って?
 
  •  もともと土豪の長坂新左衛門の城(15世紀末頃にはあったそうです。室町時代と戦国時代の境目あたりですね)
  • 松平一族の宗家(つまり徳川家康の祖先)3代目にあたる松平信光が城を攻める
  • 信光の孫の乗元が住む(大給松平の一番初め)。乗元の子の乗正が大修築(1510年完成)
  • 6代ほど住んでいたが、1590年に徳川家康が関東にいったのと同時に廃城 
 
  この地に城があったのは約100年間ということになります。そして420年間は「兵どもの夢の跡」だったのですね。
[2012/11/17 06:41] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋② 名古屋・犬山・岡崎・大給
 その本のタイトルは『こんな城があったのか』(本岡勇一著・TOブックス)。日本全国の名城奇城およそ120城を紹介しています。
121116本
 
 愛知県は織田・豊臣・徳川を生んだ土地柄。城址も含めて多数の城があります。その本には愛知県から4城をピックアップ。名古屋城、犬山城、岡崎城、そして大給城です。説明するまでもなく、前の3城が選ばれる理由はよくわかります。
 しかし、なぜ大給城が選ばれているのか? (続く)
[2012/11/16 06:25] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
大給城址2012秋① おぎゅうと呼びます
  「大給」とかいて「おぎゅう」と呼びます。私たちが家づくりを進めているのはこの大給城址のふもとで、私のニックネームの由来です。城址に小さいころから親しみ、天気のいい日は遠くまで見渡せます。この季節は紅葉しています。

121115大給城址 11月12日撮影・大給城址から豊田市内方面
 
 「城址」というぐらいですから、ここにお城がありました。私はあまりピンときていなかったのですが、この大給城は城好きの方にとても愛されていると、ある本で知りました。
(続く)
[2012/11/15 06:12] | 大給城址 | トラックバック(0) | コメント(0) |
100号を迎えて
 8月6日からブログを開設し昨日で100号「毎日少しでも更新」を信条にしてきました。

 ブログを続けて発見したこと。
  • ガラ紡に興味関心のある方は広くいらっしゃる。
  • ブログを続けていると、思わぬ繋がりが生まれる。
  • 私が「綴る・継続・編集」という作業が苦にならない「糸へん体質」なのは、ガラ紡DNAだからでは・・・。
 読んで下さっている方がみえるのを励みに今後も続けていきます。明日から城址の秋の様子を綴ります。
[2012/11/14 06:09] | 節目に | トラックバック(0) | コメント(1) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編⑨ ここのつの会
 ところで『ここのつの会』って?
 
 朝倉さんにうかがうと「1999年9月9日に発足したから」とのこと。朝倉さんは「ここのつの会」の代表です。会の名称は「9」つながりでユニークですが、目的はとても大きい会です。
 
  「豊橋の歴史の学習を通じて、地場産業の保護、環境の保全、平和な社会の実現をめざす」
(どすごいネット・東三河市民活動情報サイトより)

 ガラ紡については「石けん不要のガラ紡普及を通じて海や川を守る」を目的にしていますが、その他にも
  • アカウミガメの産卵海岸表浜の自然と景観を保護する
  • 豊橋空襲・豊川海軍工廠空襲から戦争の記憶を記録する
  • 青い目の人形送り運動から米、北東アジアとの国民的友好を広める
  • 小渕しち(玉糸製糸創始者)を軸とした糸の歴史と技術の普及
  • 鳳来、三ヶ日、豊橋、渥美、伊勢へと糸が結ぶ「おんぞ祭」の復興  
121113青い目人形  ここのつの会の展示。青い目人形については、初めて知りました。

 
  「アカウミガメ?」「青い目人形送り運動?」「小渕しち?」「玉糸?」「おんぞ祭?」…etc。初めてきくものばかりです。なんだかガラ紡から壮大な世界が広がる予感がします。もう少し話をきくために、後日朝倉さんにお会いする約束をして豊橋を後にしました。

[2012/11/13 06:09] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編⑧ 岡崎にも
 朝倉さんは、「びわこ」はもちろん、ガラ紡で織られたハンカチなどを販売されていました。

121112ハンカチ  販売されていたハンカチ

 朝倉さんの工場にガラ紡機があるのか、きいてみました。すると、岡崎にあるガラ紡工場さんの糸を、ある機織工場で織り、朝倉さんの会社『朝光テープ』で商品にされているとのこと。岡崎にもガラ紡工場がまだあること驚きました。
 
 今、朝光テープさんは息子さんが継がれ「なんとか一人分ぐらいは稼いでいるよ」と笑ってみえました。もともと前掛けの帯紐(テープ)をつくっていたところから、社名に「テープ」が入っているそうです。(続く) 
 
[2012/11/12 15:14] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編⑦ この服も
 私の組合ブースを訪ねたあと、さっそく朝倉さんの展示ブースへ。小さな織機で布を織ってみえたのが朝倉さんだとすぐわかりました。

私「かつて祖父がガラ紡を営んでおりました。小野田慎一の孫です。祖父がお世話になっていました」
朝倉さん「小野田さんの? そうですかぁ。なつかしいですね。糸をつくってもらっていましたよ」
 
 朝倉さんとしばらく祖父の思い出談義。こちらの近況も伝えました。初対面とはいえ、昔から知り合いのような感覚になりました。
 「これも、あなたのおじいさんが紡いだ糸でできているよ」。朝倉さんご自身が着ている服を指差しました。

121111朝倉さん 朝倉さん

祖父の紡いだ糸を今でも大事にされていました(続く)。
[2012/11/11 05:59] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編⑥ 平和都市をめざそう豊橋市民展
  朝倉さんの出展している「平和都市をめざそう豊橋市民展」は、豊橋市・神明公園という場所で開催されていました。豊橋祭にあわせ東三河の労働組合や平和団体、そして生協も含めて「豊橋を中心とした東三河が戦争の恐れのない平和で環境豊かな住みやすい地域になる」よう、さまざまな活動紹介やパネル展示をしています。今年は脱原発もテーマにしていました。

121110平和都市

 朝倉さんは「ここのつの会」という団体で出展しているとききました。 (続く)
[2012/11/10 06:34] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編⑤ 松平のガラ紡
 愛知大学のガラ紡展示をみて、もうひとつの疑問。

  「このガラ紡機は、どなたの工場にあったものだろう?」。

   これまで明治村・発見館・堀金村資料館のガラ紡機を訪ねてきましたが、いずれも祖父の工場のものでした。愛知大学の展示室の資料写真にも、祖父の工場が写っています。

 ガラ紡機にタブをみつけました。

121109タブ 
 
   読むと、このガラ紡機は豊田市(旧松平)から収集し、昭和50年代まで使用されていたようです。
  「もしかして、これも祖父のガラ紡か?」と職員に質問しましたが、そこまではわかりませんでした。でも、松平のガラ紡であるとわかりました。

 この疑問解決は次の楽しみに残し、次の目的、朝倉さんのところへ。
[2012/11/09 06:40] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編④ 高校生のおかげで
 その新聞記事は、2008年7月16日付朝日新聞『高校生、ガラ紡に息吹』という見出しがついています。

121108新聞記事
 
  記事によれば
  • 愛知大学にはガラ紡が50年前から資料として保存されていた。しかし整備できずに公開できていなかった。
  • 愛知大学の中部地方産業研究所研究員で、ガラ紡に詳しい天野武弘教諭(豊橋工業高校)が整備を手伝うことになった。
  • 天野さんが2008年度に整備への参加を募ると、高校生4人が関心をしめしてくれた。高校生が作業にとりかかり、糸を紡げる状態にした。
 そんな物語があって、愛知大学でガラ紡が一般公開されるようになったのですね。毎週金曜日11~12時には実演もされているそうなので、近いうち見学したいです。(続く)
[2012/11/08 05:40] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(2) |
ガラ紡を訪ねて・豊橋編③ ガラ紡の設計図も
  展示室はガラ紡関連だけが集まっていました。ガラ紡機・合糸機・撚糸機はもちろん、壁に臥雲辰致さんの生涯、ガラ紡の説明案内が貼り出されていました。 

121107ガラ紡 
  糸車などの道具とガラ紡機の器具も展示されています。 

  121107糸車など

121107ガラ紡器具 

古いガラ紡機の設計図もあります。 

121107案内 

  せいぜいガラ紡機が置いてある程度という予想を裏切る展示でした。「どうして愛知大学でガラ紡の展示が丁寧にされているのだろう」と疑問に思ったところ、ある新聞記事の展示をみつけました。(続く)
[2012/11/07 05:39] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ガラ紡を訪ねて/豊橋編② 愛知大学・大学記念館
 まずは愛知大学の豊橋キャンパスへ。豊橋駅から豊橋鉄道渥美線に乗り換え愛知大学前下車。学内に中部地方産業研究所という団体があり、ガラ紡が常設展示されているようです。場所は「大学記念館」とのこと。

 大学内をうろうろして探しました。時間はかかりましたが、「大学記念館」に到着。

121106記念館
 
  歴史ある建物だけでなく、入口の「ガラ紡展示室」という大きな看板にも驚きました。

  121106看板
 土曜日は午前中のみ展示しているようです。さっそく中へ。

[2012/11/06 05:52] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(2) |
ガラ紡を訪ねて 豊橋編① 同僚から
  「ガラ紡といえば、いつも豊橋祭のイベントで出店されている方がいるよ」。ガラ紡に興味があると職場で話していたところ、同僚から驚く情報をききました。

 愛知県豊橋市では毎年10月第3週土日に豊橋祭が開かれます。私の労働組合も豊橋祭にあわせ「平和都市をめざそう豊橋市民展」に出店しています。同僚に詳しくきくと、その出店されている方は「朝倉さん」とのこと。朝倉さんといえば、ガラ紡で『びわこ』というふきんやタオルをつくっていらっしゃる朝光テープさんです。祖父もガラ紡糸を朝光テープさんに卸していたと、叔父からききました。

121105びわこ ガラ紡といえば『びわこ』

 こんな身近にガラ紡つながりがあるとは・・・。
 
 豊橋には愛知大学にガラ紡機が展示されているともききました。ガラ紡機と朝倉さんに会うのを目的に、10月20日(土)に豊橋へ向かいました。
[2012/11/05 13:42] | ガラ紡を訪ねて・豊橋編 | トラックバック(0) | コメント(2) |
ワタづくり2012⑭ 綿とガラ紡と里山
 綿繰り作業から始まった、綿を取り巻く事実を綴りました。がく然とする感情も抱きましたが、綿を通して松平でいろいろできるのではないか、というアイデアも浮かんできました。

 たとえば・・・
  • ガラ紡工場の跡地や荒れた田畑に綿を育てる。それを里山保全・景観につなげていく。
  • 子どもたちの綿を育てて摘む体験場に。またはオーガニックコットンを必要とする方のための場づくり。
  • 綿からみえる世界のこと、そしてガラ紡の楽しさを広げていく・・・etc

 祖父をはじめ代々100年にもわたりガラ紡が営まれたおかげで、私たちは松平の里山に住めます。また、ガラ紡を必要とする方々のなかに必ず祖父母が登場します。そして、今、ガラ紡が見直され必要とされる時代が到来している予感がします。
 松平という里山でガラ紡や綿を通して楽しい営みをしたい、とワクワクした思いになった綿繰り作業でした。
 ・・・まずは荒れた土地を耕すなかまを知り合いたいです。
[2012/11/04 08:53] | ワタづくり2012 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ワタづくり2012⑬ 綿畑で児童労働
 そんな思いが駆け巡るなかで、さらに衝撃が・・・
「世界の子どもを児童労働から守るNGO・ACE」というホームページで「コットンのやさしい気持ち」というプロジェクトを見つけました。読むと、インドでの綿産業における児童労働や農薬被害が深刻になっている事実を知りました。
http://acejapan.org/cotton/
 
そのなかの文章を紹介します。

    • 私たちが生活の身近に使っている綿製品の原料、コットン。世界生産量の約80%が、発展途上国の人々によって生産されています。中でもインドは世界最大のコットン耕地面積を持ち、コットン生産量世界第2位(約20%)を誇ります。そして同時に、インドのコットンやその種子の生産地で、多くの子どもたちが劣悪な労働条件で働かされています。
    • 多くのコットン生産国では、畑で使用する有害な農薬による土壌劣化や地下水の汚染、健康被害をはじめ、低賃金労働、児童労働の使用などさまざまな問題があります。
     
      綿をめぐって、世界ではこんな現実があるのか・・・無知が恥ずかしくなりました。と同時に、綿から社会のありようを変えたいと行動する方がいらっしゃることにも頭が下がります。
[2012/11/03 07:20] | ワタづくり2012 | トラックバック(0) | コメント(0) |
ワタづくり2012⑫ 大量の農薬・枯葉剤
 インターネットの関連ページを読みすすめていくと、こんな文章がありました。
  • コットン畑の面積は、世界の全農作の耕作面積の約5%と少ないのに対し、世界の殺虫剤の25%はコットン畑で使われているといわれています。
 ページによって表現は違いますが、世界の農薬(殺虫剤など)の4分の1は綿に使われているという数字は共通しています。
 
 衝撃だったのは、農薬のなかでも「枯葉剤」を大量に使っていること。枯葉剤とはベトナム戦争でアメリカが化学兵器として大量に使用し、今でも先天性障害をもつ子どもが誕生するなど今でも影響が続いています(ドクさんが、よく知られています)
 
 今年初めて綿摘みをして、大量収穫には根気がいると想像がつきます。綿繰りをしても、綿のなかに葉や種の皮が残り、とても効率よくないのもわかります。これらの作業を効率よくするために、収穫の段階で枯葉剤を大量に使用している・・・

 私も綿シャツをよく購入します。「インド綿Tシャツ」は安くて便利です。
「じゃあ、私の着ているTシャツをつくったインドの農家は枯葉剤で害をうけていないのだろうか・・・」。
・・・ぐるぐると、いろんな思いが駆けめぐりました。(続く)
[2012/11/02 05:54] | ワタづくり2012 | トラックバック(0) | コメント(2) |
ワタづくり2012⑪ 綿の自給率0%
  「綿 自給率」というキーワードでインターネット検索してみます。表示されるのは「綿の自給率0%」「自給されなくなった綿」という言葉。食糧自給率4割とはききますが、まさか綿は日本では自給されていないなんて・・・。
 表示されたホームページのひとつから、次のような文章をみつけました。

 食の白給率の低下も問題だが、昔から衣の中心素材であったワタの白給率は昭和三十年ごろを境に落ち続けて、いまや0パーセントとなった。そして今、そのタネさえなくなろうとしている。


  かつては自給率は100%であったという綿。いまや統計上では日本で自給されていないのです。「えぇ~」と驚いたのは、それだけではありません(続く)
[2012/11/01 06:05] | ワタづくり2012 | トラックバック(0) | コメント(0) |
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